和田依子さんの手による、アフタヌーン連載の憑依モノ。
2話3話と感想記事を書いてなかったのは、気の利いたコメントを思いつかなかったからでして。それというのも――
重い。
半端ない重さです。下手なことが言えません。
しかも、毎回扉絵とアオリが凄く的確で、インパクトも強いんですよね。
第3話のアオリが、
「君は君だった頃、どう動かしていたっけ。」
第4話のアオリが、
「あいつがいないことに、誰も気付かない。
おれがいることは、誰も考えやしない――」
もう、こんな記事の続きなんか読んでないで、このフレーズから作品を感じ取って、書店に走ってくれればいいよ!と言ってしまいたいところです。
それぐらい的確すぎて、ズシンと来る。
第1話の欄外には「生者は他人の死に順応する、らしい。じゃあ、おれは何に順応する?」と書かれていましたが、まさに3・4話はそこに差し掛かったところ。
少年・タケルの死を誰もが受け入れようとし、
少女・シキの生存を誰もが疑わない。
シキ復活のために彼女の身体で生きるタケルにとっては、都合が良いとさえ言える状況。
けれど、自分がその場にいて、息をして、喋って、生前どおりの行動を取っているのに誰も気付かない。誰も、自分がここに存在していることに気付いてくれない。そのことは、タケルにとっては想像以上に苦しいものでした。
「自分が死んだ後の世界で生きる」ことへの苦悩は、これまで、あまり描かれたことがなかった気がします。
三浦実子さんの『リターン』にしても、おおばやしみゆきさんの『純★愛センセーション』にしても、他人の、女の子の身体でこの世に留まることになった主人公が気にしているのは、もっぱら親友だった少年のことです。
(まあ、後者は特にコメディ度が高いというのもあるのですが)
それというのも、憑依した相手が今までまったく交流のない赤の他人であるということ。
そして、一番大事な人間が生きて目の前にいるということがあったからなんでしょうね。
赤の他人の身体だから、好き勝手に使おうという気持ちにもなるし、大切な人間が生きているのなら、そいつのことを一番気にかけたくなる。
けれど、その一番大事な人間の身体を使って生きていくとなると――
全身全霊で関われる人間が、寄りかかる相手が、守りたい相手が、この世にはいないということになるんですよね。
タケルは、「タケルが存在しない世界」にも「シキが存在しない世界」にも順応しなければいけなくなる。
せめて理解者がいれば楽になれるんですが、サポート役の魂・シャシーは愛らしい蜘蛛(マテ)から、不吉ささえ感じさせる芋虫へと姿を変えてしまい、言葉も離さない。
もしかしたら、シキの魂が眠る三途の川への移動にも支障があるかもしれません。
シキらしく生きる術もわからず、誰ともまともに交流がとれない現在のタケルは、とてつもなく孤独です。
(理解者となりうる存在はいますが、本当に救いとなるか否かはまだ……)
そういった事情ゆえに、『少年式少女』は死後の憑依を扱った作品の中でも一際真剣に、死と向き合う作品となっています。
かなり珍しいタイプの作品ではありますが、だからこそ
「最近TSモノがやたら増えたけど、お約束にはもう飽きた!」
という方にも注目してもらえたらなあと思いますね。
2009年11月28日
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