「やだ、何も使ったことないの?」
ベッドに横たわった女の言葉には、挑発的な響きが含まれていた。少しムッとして思わず言い返す。
「いや、だって危ないだろ。俺はそんなもので人生棒に振る気はないよ」
「知らないんだ? 依存性のないものだってあるんだよ。身体に毒ってこともまったくないし、タバコの方がよっぽど身体に悪いんだから」
女の口調は自信に満ちていて、何も知らない相手に目上から教えてやっている、という態度だった。
「それとも何? 法律のお墨付きがないとなんにもやれない?」
臆病だなあ――とまで言われたわけではないが、彼女の目がそう語っている気がした。
「ちなみに、持ってたって捕まらないよ。禁止されてるものじゃないから」
果たして、そんなに単純なものなのか。無知な人間の言い訳じみているとも感じたのだが、ここまで言われても手を出さないと、きっと「臆病な良い子ちゃん」の烙印を押されてしまうだろう。
それは面白くない想像だった。
彼女――マリナと出会ったのは夜の街だ。
大学に合格し、念願の一人暮らし。思いっきり羽を伸ばし、一人暮らしを満喫してやるぞと意気込んでいた自分にとって、都会生活に添える華としてうってつけに見えたのが彼女だった。
その美しさや垢抜けた雰囲気に惹かれたのも確かだが、もっと直感的に、一目見た時から「彼女が欲しい」という抗い難い衝動に襲われ、声を掛けずにはいられなかった。
彼女はとても積極的で、出会ったその日に関係を持つことができた。
未だに、俺はマリナのフルネームも知らないし、連絡方法も携帯のメールしかない。それでも、彼女とは会う度に必ず寝ている。
繋がりは浅いのに、行くところまで行っている。そんな関係も、都会的で良いんじゃないか――なんてのは強がりかもしれないけれど、彼女から求められない限り、自分に縛りつけようとする気はなかった。露骨な執着心を晒して引かれたくなかったんだ。
その一方、彼女の求めには出来るだけ応えようとした。彼女に認められる男になりたいと思って、色々背伸びもしていた。
呆れられたり、見下されたりして、自分から離れてほしくはなかった。
だから――この日、行為の前に彼女が飲んでいたクスリ。それを使ってみないかという誘いを拒むのは難しかった。
「マリナが言ってたのは……多分、このアパートだよな」
数日後の夕方、俺はメモを片手に歩き回っていた。
詳細な地図を用意してもらえたわけではなく、マリナに口で教えられた道順を書き留め、それに従って歩いているだけだ。なんでも、必ずその道順で向かわなければならないらしい。警察対策だろうか? ビルの間の、やたらと細い道を通らされたり、時折元来た方角へ戻らされるなどかなり面倒なルートだったが、なんとか目的地らしき建物に辿り着くことができた。
あまり人の気配のしない、やけに薄暗いアパート。その一室のドアを叩くと、すぐに声が返ってきた。
「……誰の紹介ですカ?」
声からすると男なのだろうが、妙な発音だった。外国人なのかもしれない。
俺はマリナから言われた通りに、彼女から渡された名刺大のカードをドアの郵便受けに落とし込む。どうも、そのカードが紹介状代わりらしい。最初は名刺かと思ったそのカードだが、表面に書かれている文字は「MARINA」という名前のみで、住所や連絡先も載っていない。その代わり、意匠には随分凝っていて、偽造には手間がかかるだろうなと思わされた。裏面は灰色一色だったが、今はそこに、マリナの手で「フミヤ」と書かれている。
「ああ、マリナさんですか……フフッ、頑張っていますネ。……でハ、アナタは初めてというコトですのデ――」
男が提示した額はかなり安く、驚いた俺は思わず訊き返してしまった。とても非合法品の値段とは思えない。
「お試し価格というやつですヨ。ただし、今回は二錠のみです。気に入りましたら、またお出でくだサイ」
こんな業界にそんなものがあるのかどうかは知らないが、俺のようにいちかばちかで買ってみる人間には都合が良い。ただ一つ心配なのは――
「……本当に、ソレに依存性はないんだな?」
声を落としたその質問に、相手は間を置くことなく答える。
「ハイ。このクスリには依存性はありませんヨ。身体や心を傷つけることはありませン。望むのならいつだっておやめになれマス」
売人の言うことを真に受けるなんて愚かなことかもしれないけど、とにかく、その言葉が最後の一押しになった。
郵便受けから代金を入れると、すぐに、小さな袋に入れられたカプセル錠が二つ差し出された。同時にマリナのカードも返却される。また買う時に使えということなのだろう。
物を受け取った以上、こんなところに長居は無用だ。来た時同様、周囲に人気はなかったが、誰かに見られる前にと即座に踵を返す。
「ソウソウ」
ドアの前を離れようとしたところで声を掛けられ、ビクリとして立ち止まる。
「帰り道は、ご自由ニ。またのお越しを、お待ちしておりまス」
理由はよくわからなかったが、遠回りをしなくて済むのならありがたい。このアパートのだいたいの位置は見当がついたので、まっすぐ下宿先へ向かうことにした。
時刻は夜の七時頃。夕飯を一時間ほど前に済ませ、俺は例のカプセル錠と睨み合っていた。
カプセルの形こそしているが、マリナの話によると、水などで飲み込む必要はないから口の中で噛み潰せ、ということだった。他に言われたのは「まあ最初は、食後すぐは避けた方が良いんじゃない?」ということと、「クスリを飲んでから、このビルの地下に来て。いっぱい楽しめるから」ということだった。今度は手書きの地図も渡されている。
飲んだ後で外出なんかして大丈夫なのか、というか、なんで先に飲んでおかなければならないのかと疑問に思ったが、「最初は効果が出るまで時間がかかるし、わたしが飲んだ後もおかしな様子はなかったでしょ?」と答えられた。確かに、もの凄く感じやすいみたいだなと思ったぐらいだ。実はいつも会う前に飲んでいたらしいんだけど、ラリってるようには見えなかった。
どうやら、本当に性感だけに効果を発揮するクスリみたいだ。
(――とっても気持イイんだからね)
マリナの声が脳内に蘇る。ごくりと唾を飲み込む。
(アソコだけじゃない、全身が信じられないぐらい感じちゃうの。今までにない体験ができるわよ――)
カプセルを手の平に乗せる。ぐっと目を瞑ると、思い切って口の中に放り込む。
言われたとおりに歯で噛み潰すと、どろりとした妙な味の液体が舌の上に広がった。
変わってはいるけど、極端に不味いというわけでもな――
「ぐっ?! が……!」
突然、頭をズガンと殴られたような衝撃に襲われた。視界がぶれ、体が動かせない。
そして、体がもの凄く熱い。腹の奥から全身に向かって、一気に燃え広がっていく。
「あ、ああ……う、あ……! くっ……あああっ!」
わけもわからないまま、苦痛に声を上げたところで――意識が途切れた。
床に倒れ込んだ状態で、目を覚ます。なんだか頭がぼーっとしている。何か違和感があるのだが、それが何なのかわからない。
「うあ……なん、だったんだ、一体?」
さっき飲んだクスリの作用。それは間違いないだろう。あれだけ安全だと言っていたのに、俺の体には合わなかったとでもいうのだろうか。それとも、運悪く不良品を掴まされたのか。
「……ついてねえ。ろくでもないもん寄越しやがって。あー、くそ、喉、乾いたな」
体を起こすと、床はびっしょりと濡れていた。どうやら尋常でなく汗をかいたようだ。喉が乾くのも無理はない。
「シャワー浴びねえと……。今、何時だ?」
テーブルの上に置いてあった携帯を手に取る。八時。日付も変わっていない。倒れていたのは一時間程度か。
ん……? あれ?
俺の腕って、こんなに白かったっけ? それに、なんか全体にほっそりしてるような……。
「ちょ、ちょっと待て。なんだよ、これ!?」
ち、違う。こんなの、俺の腕じゃないぞ?
肌が白いだけじゃない。毛もほとんど生えてないし、皮膚は薄くてすべすべしている。自分で言うのもなんだが、うっとりするような触り心地だ。それに、手首から先、指の方まで細くなってて、節も目立たず、綺麗に整っている。こんなの、どう見たって男の手じゃない。
男の手じゃ、ないと、したら……?
そんな馬鹿なことがあってたまるかと思いつつも、恐る恐る視線を下ろして、自分の体を見る。
「う、嘘……だろ?」
見慣れたTシャツが、その内側から何か丸い塊に押し出されるように、大きく膨らんでいる。
いや、それどころか、襟の隙間から見えるのは、胸の谷間としか思えないわけで。
「女の……胸? ど、どうなってるんだっ!?」
慌てて立ち上がると、部屋を出て洗面台へ向かう。どうも体のバランスがおかしくなっているようで、よろけながら走った。
洗面台の前に辿り着くと、今度は躊躇せずに鏡を覗き込む。
「お、俺……はは、ちょっと、待てよ。本当に、女になっちまった、のか?」
そこに映っていたのは、見覚えのない、可愛い女の子だった。
髪の長さは変わっていないみたいだけれど、顔立ちはすっかり変わってしまっていた。ショートカットの女の子にしか見えない。知り合いに出会っても、この娘が俺だなんて気付いてもらえないだろう。
外見年齢は……多分、同年代ぐらい。身長はちょっと低くなっている気がする。体型と服がまったく合ってなくて、肩はずり落ちそうなのに、胸の部分はぱつんぱつんだった。
流石にしばらく躊躇った後、意を決して触った股間にも、馴染みのある膨らみはなかった。
水をたっぷり飲んで、顔を洗うと、どうにか気持ちが落ち着いてきた。
俺の体が女になっていることは最早疑いようもない。ならば、これからどうするかを考えないと。
マリナには既に問い詰めるためのメールを送ったが、まだ返事は来ない。こんなことなら、無理にでも電話番号を訊き出しておけばよかった。こちらは急ぎだというのに、連絡がつく状態なのかどうかすらわからないというのはもどかしい。
いや、もし確信犯的にこのクスリを勧めたのだとしたら、こちらの呼び出しになど応えないのではないか。けど、なんのためにこんなことを?
「確信犯だったとしたら……やっぱ、行ってみるっきゃないのか」
マリナが書き残した地図を見る。彼女曰く「パーティ会場」があるという場所。
もしかしたら、彼女もそこで待ってるんじゃないだろうか。
(つづく)
2009年06月09日
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その魅力に取り付かれると・・・十月十日後が楽しみだ。^^
お読みいただき、ありがとうございます。
おおっと、先に漢字を書かれてしまいましたか(^^;
実はタイトルにも悩んだんですけどね。なかなかピタッと決まるものが無くて。
さて、彼の辿る道は……暫くお待ちくださいませ。